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年月日とは?/ アットローン

[ 362] 和暦、西暦の年月日対応に関する注意点
[引用サイト]  http://www.pk-shibuya.school-info.jp/fg-slope/chokanji/nanda.html

と書いてある。なんじゃこりゃ!!? 年は西暦で書いてあるのに、月日は和暦になっているので注意が必要です。と言うより、こんな西暦、和暦をごちゃ混ぜにした書き方をしてきたことが混乱の元となっている。
こういう馬鹿げた書き方を今まで誰も疑問に思わなかったこと自体が愚か(私も含めて)だが、何の注意書きもしなかった出版社はそれ以上に愚かです。
なぜこのような書き方を慣例的にしているのか、説明がないので一般人は全く理解できないだろう。私も全く理解できなかった。
であることが簡便に分かるために便宜上、「見せかけの西暦年」として1644年と表しているそうです。同じ年という意味は、寛永21年の途中で正保元年に切り替わったということです。単に年号名が変わっただけで、1つの年であることに違いがないということです。つまり、これは、絶対的な西暦年ではなく、単なる記号であって、いわばシリアルナンバーみたいなもの。言い換えれば、仮想の1月1日の西暦年で表すということです。そう言われてみれば納得できなくもない。正確な西暦年月日に変換してから比較するよりも、簡単に分かるということです。年の差が簡単に計算できたりするということだろう。
要するに、和暦を基準にする側(学者や研究者)にとって好都合なだけにすぎない。研究者の常識、現代一般人にとっては非常識、と言えるだろう。研究書ならまだしも、一般書や普通の辞書/辞典では、正確に、
西暦しか使わない現代一般人にとって、西暦の年月日を基準に判断することしかできないし、世界史との比較をする場合にも正確な対比は必要なことです。それに、我々一般人にとって、正しい西暦年月日が分かりさえすればいい。正保元年と寛永21年が同じ年であるかなんてことを知りたい人は誰もいないだろう。それは別の情報から知ればいいことです。
第一、現代一般人に混乱をもたらしていることが、このような見せかけ表記の妥当性を完全に否定している。私がこんな説明を長々と書かないとわからないということ自体が、時間の無駄でもあるし、効率的でもない。そういうトータルな見方をすれば、即刻こんなごちゃ混ぜ表記(見せかけの西暦年表記)など止めるべきだろう。一般人ではなく、研究者や学者こそ頭を使って(混乱しつつ)変換すればいいことです。
それどころか、今回、Webで検索してみて分かったことは、元号初日の正確な西暦年月日を知ることができるサイトがないということです。私が見た限りでは、1つもなかった。1つくらいどこかにあるかもしれないが、それを見つけるのは至難の業(時間の無駄)です。Web上には、ごく単純な西暦和暦年変換サイトしかないし、「見せかけの西暦年表記」は辞書等と全く同じです。
明治の始まりが正しくは西暦1868.10.23(金)であるということさえ、辞書で分からないという事実は何を意味するだろうか。辞書を引くと、『1868.9.8』と書いてあるのは、慣例だからというような言い訳は出来ないだろう。私も辞書に騙された口だが、こういうことをちゃんと説明するのが辞書というものです。
全ての年月日を辞書で調べられないのは仕方ないとしても、年号の範囲くらい、正確な西暦年月日が分からないようでは、辞書の価値など全くない。何十年、あるいは百年以上もそんな無能な辞書を出版し続けてきたとは、本当に嘆かわしい。
となっているのが最も典型的でわかりやすい例です。西暦で2.30なんて存在しないのは誰でも分かることです。私がこの問題に気づいたのもこの点だった。
本屋で10冊以上の辞書を調べてみて意外だったのは、年号を書いてない辞書が結構あるということです。分厚い辞書だから載っているということでもない。それにしても、年号を省く理由もよく分からない。載っているだけまだましかもしれない。そして、書いてある全てが、こういう西暦と和暦ごちゃ混ぜの書き方をしている。たぶん出典が同じなのでしょう。要するに、日本の全ての出版社が非常識ということです。広辞苑も5版にもなって、こんなことに今まで気づかなかったというのは、改版というのは何を直しているのか疑いたくなる。
他の出版社はいつこのことに気づくのか楽しみです。多分、指摘しなかったら、何百年経っても今のままでしょう。
昔は、元号が切り替わったことを知らずに、文献でも、あり得ない年月日で書いたものが結構あるそうです。そう言われれば、そうでしょう。
ただし、「日本暦西暦月日対照表(日外アソシエーツ刊)(\3090)発売元/紀伊國屋書店」には、年号の境の重複があるとは書いてない。聞けば、諸説があるからどれが正しいとは言えないからのようです。
これも、「見せかけの西暦年」と同じ発想で、同じ日にしておけば、その日に切り替わったということがはっきり分かるということかもしれない。つまり、「見せかけの日」ということです。あるいは、実際問題として、am0:0ぴったりに切り替わるなんてことはないのだから、年号の最後の日と改元日がダブるのは当然(合理的)とも言える。
この「日本暦西暦月日対照表」のまえがきによれば、月日まで西暦と和暦を対照する資料がほとんどなかったから出版したそうです。1987年に初版が出ているので、それから今日まで、15年も経っているのに、世の中はなんら改善されていないということがよく分かる。今どき、気の利いたWebサイトなら、このくらいのデータを公表していてしかるべきだろう。ただひたすらデータを打ち込めばいいだけなのだから。本当に使えないサイトばかりで嫌になる。
「日本暦西暦月日対照表」は、正確な年月日の対照ができる唯一と言っていいくらいの資料ですが、付録の「改元月日表」には従来どおりの慣例的な西暦表記(一般常識から見れば誤記)がある。これも指摘した(02.1.27)ので、第7刷で修正されるかもしれないが、どうなるやら…。
のように正確に書いてあるのは、そういう指摘を受けてきたからだと言う。つまり、言われたことしか直していないということで、全部見直してみようなどという面倒なことは一切しないという最低の姿勢がよくわかる。広辞苑の中でも、こういう西暦和暦の対照表記を正しく行っている項目もあるようだが、ほとんどはいい加減なもの(慣例的な見せかけの西暦表記+和暦月日)だということを肝に銘じておく必要がある。
安易に、元禄15(1702)年12月14日のような慣例的な誤解を生む書き方をするくらいなら、西暦なんて書かない方がよほど親切ですね。と言っても、世の中、間違った変換ソフトしかないので(拙作「あと何日もう何日前?」を除いて)、自分で調べたとしてもたぶん間違いに気づかないでしょうけど…。
拙作「日記帳原紙」、「あと何日もう何日前?」や西暦和暦 年月日対応表では、元号の境界は重複しないものとしている。
当時が厳密でなかったというのが本当なら、それで問題ないだろう。それに、いまさら、そんな1日の違いを気にする人は、一般人にはいないだろうし、その方が単純かつ合理的だからです。
こういうことを正しく知ると、新聞やテレビでの和暦表記がやけに気になり出します。そういうときは、「あと何日もう何日前?」や西暦和暦 年月日対応表を使って確かめましょう。そして、それが間違いだと分かったら、クレームを入れてやりましょう。時代考証がどれだけ正確か、いい加減かがよくわかるでしょう。
プログラム辞典[第1巻](技術評論社)のp.286にある西暦和暦変換関数でも、同じ間違いを犯している。明治、慶応の西暦年月日が間違っています。こういういい加減な関数が書いてあるから余計に混乱する。そんな簡単に変換できないということが分かっていないんでしょうね。

 

[ 363] 闇黒日記
[引用サイト]  http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html

「誤操作の結果編集内容が失われるのは最悪のパターンだから、GUIのOKボタンは右に置くのが正解」つて何んな論理だらう。何でも「だから」とか「何故なら」で結び附ければ良いと云ふものではない。もう少しきちんとした言い回しにするなら、メニューの一番左にはユーザが選んで一番問題のないものを置いた方が良い。と言つてゐるが、「きちんとした言い回しであつてもきちんとした理窟ではない。
「メニューの一番左のボタン」と「ユーザが選んで一番問題のないボタン」の間の因果關係が何一つ示されてゐない。
マウスのボタン配置に就いて、ユーザが右利きか左利きか、が問題になつた事はある。ところが、ダイアログボックスのボタン配置についてそれが問題になつた事は滅多にない。
多くのOSで、マウスボタンの左右のボタン設定を入換へて右利き用或は左利き用に設定出來る。ところが、殆どのOSで、それに連動してダイアログボックスのボタン配置を入換へるやうにはなつてゐない。何でだらう。
今の平和な日本で眞面目に宗教信じてゐる奴なんてゐる訣ない。戰ふべき敵がゐるから信者は存在し得るんだよ。
日本の場合、歴史的に「さとりすましたやつが宗教家」みたいな通念が定着してゐるから、とりすました「態度が氣に入らない」のレヴェルで宗教家に反感を抱いてゐるだけの人が極めて多い。
日本人は信仰について未熟だ。殆どの日本人が價値觀と云ふ事を根本から考へた事はない。教義だの徳目だのをシステムとして檢討する事はあるし、態度をそれに單純に照し合せて人を評價する事はあるけれども、その程度の事しか日本人はできない。
日本人の場合、「樂に生きる」と云ふ事の考察すら本質的には出來ない。T.S.エリオットの「カクテル・パーティ」なんかを讀んでゐると、ただ「こだはりがない」とか「柔軟」とか言つただけの事を考へる日本人には、やつぱり何か缺けてゐるものがあるやうに思はれる。結婚についても同樣。
葬式は,生きてる人が心を整理して,けじめを付けるためのものです(ある意味では,忙しくてバタバタしている間は,悲しみを忘れることができる.――最近は薬が效き過ぎてこの手の解釋が世の中を覆ふやうになつてしまつた。成程、この解釋は正しい。けれども、若し心から斯う云ふ事を信じて全てを割切つてしまつてゐる人ならば、葬式をやつても意味はないとしか思へないし、そもそも人が死んで悲しむなんて事すらもあり得ない。
キリスト教徒じゃなくてよかったと思うことは色々あるけど(私は姦通に代表される不道徳なことが大好きなのだ)、一番はコレかもしれない。私がキリストを信仰していたらファッション誌を読む度に猛烈な怒りを覚えたろう。
「姦通」のみならず「姦淫」を惡と看做し、禁止するのは、キリスト教の特徴的な徳目の一つ。行爲以前の思想の時點で、キリスト教は既に「道徳的に惡い事」が「發生してゐる」と見る。「惡い事をするな」ではなく「惡い事をそもそも考へるな」と命ずる訣だ。勿論、そんな事は無理で、その無理な事を命令したのだから、キリストと云ふ人は無茶な人なのだ。
然るに、キリスト教でも、無茶は無茶と解つてゐる。心の中で犯す罪も罪であるから、キリスト教で人間は基本的に罪人になる。が、そのまゝでは困るから、キリスト教では「人間は惡い事をする」と云ふ大前提の下、信者のなすべき事を決めてゐる。
カトリックでは普通に「すべき事」とされてゐる告解――これは自分が犯した罪を自分以外の存在者である聖職者に告白し、それによつて神の赦しを得るものだが、行爲のみならず思想のレヴェルで罪を存在させてゐるのだから成立ち得る宗教行爲だ。誰にも知られてゐない心の中の事を告白させるのが告解の目的で、或意味實に趣味の惡い事だが、「人に迷惑をかけては行けない」と云つた教へを道徳だと思つてゐる日本人とは、根本的に發想が違つてゐると言はざるを得ない。
で、さうした連中の無茶苦茶な發想を知らないならば、連中が民主主義だの自由主義だのと言ひ、思想・信條の自由とか宗教の自由とか言つてゐるのも、本質的には理解出來ないだらうと。
今の憲法でもいろいろな自由は「公共の福祉」とかに制約されたりする訣で、或意味戰前の憲法と同樣、國民の權利は法律で制約可能だつたりする。けれども、一方で、思想とか信條とかはどうやつても規制は出來ない。例へば「児童ポルノ規制法」なんかで規制が行はれようとしてゐるけれども、これは思想・信條それ自體の規制ではない、エロ寫眞等の所持の規制――行爲の規制になる。この邊、多くの論者が根本的に理解出來ないまゝ議論を進めてゐるし、さうした皮相な議論を通して日本では物事が決つて行く事が極めて多い。
戰前、國民の權利を侵害し捲つた憲兵は、しかし、「思想はそれ自體として取締る事は出來ない」と云ふ常識を持つてゐたさうだ。憲兵ですら知つてゐた事を――。
Theoria氏にしても、「何う云ふ場合には何うする」といつたシステムに關する議論には大變興味を持つに過ぎない。けれども、それは宗教の――殊にキリスト教に於ては――本質ではないから、所詮は非宗教的な興味に基く知的遊戲に過ぎない。知的興味にだけに基いて見るならば、連中の神學論爭を調べるのは結構いい暇潰しになる。が、「何でこんな事を一生懸命議論したんだらう」とか考へ始めるなら、最う遊びは御終ひにした方がいい、そこから先は價値觀に對する理解が必要になる。
モルモン教にしてもエホバの証人にしても、カルトと呼ばれる宗教は、どれも大宗教に對して、教義についての異常な尖鋭化が見られる點で異つてゐる――が、さうしたカルトの尖鋭化は、行爲に對する命令の尖鋭化に外ならず、思想的な尖鋭化も結局は行爲の尖鋭化に直結するものでしかない。輸血のタブー化にしても、最早教義との整合をとる事だけが目的であり、道徳的な意義は皆無に等しい訣だが、さう云ふ事にひたすら眞面目に取組む官僚的なところがカルトのカルトと呼ばれる所以だらう。
大宗教としてのキリスト教は、思想的に見れば極端過ぎる内容が多く、下手なカルトよりもカルト的だつたりする。が、カルトと區別されるのは、キリスト教の場合、命じられる事が全て道徳的な裏づけを持つてゐる點にある。
Theoria氏が行爲としての姦通を「不道徳」と讀んでゐるのに對して、キリスト教ではさうした惡事もまた道徳的な行爲と看做す――と言ふより、惡事であるならば全て道徳的な行爲となる。理性が惡と判斷し、それに基づいて良心が禁止する行爲を、現實に「するか否か」は自由意志が決定する――が、理性・良心・自由意志が介在して決定された事は、キリスト教では全て道徳的である。それらなしに行はれた事は、道徳とは無縁の事である。
が、さうした意味で不道徳な事は、非人間的な事であり、非人間的な事を人間がなすのはキリスト教に於て最も忌嫌はれる事となる。人間が他の人間の精神をコントロールして、自由意志を奪ひ、良心を默らせる事は、キリスト教的價値觀が最も憎む事だ。
實は、理性の判斷が誤つてゐてもキリスト教では全く問題にしない。理性が惡だと判斷した事を、良心は常に禁止するが、良心が禁止した事を自由意志が、すれば惡だし、しなければ善だ。
斯うした發想に基くならば、カルトが信者の理性の判斷を歪め、自由意志を奪ふのは、許されざる事となる。が、一方で、カルトの信者が飛んでもない事をしでかしたとしても、良心の命令に從つて自由に行動した結果であるならば、その人は善人であると言はざるを得なくなる。カルト以前に、他の宗教の信者、或は無神論の人でも、キリスト教的には善人と言はざるを得ない場合がある。
斯うしたキリスト教の「問題」については、グレアム・グリーンが『權力と榮光』その他の小説で扱つてゐる。
Theoria氏が、普通のキリスト教の聖職者と話をしたとして、共産主義の事を話したとしても、カトリックの聖職者ならば激怒しないかも知れない。グリーンの小説で、キホーテ神父は、共産黨宣言を讀んで、感心し、その書き手は善人であると言つた。もちろん、小説は小説に過ぎず、事實ではないし、グリーンの小説はキリスト教の世界でも問題になつてゐるのだが、しかし、グリーンはクリスチャンの一人として、マルクスを善人と看做し得る事を考へ、書いてゐる。論理的には「あり得る」事だらう。
と言ふか、L字にしてまで何で通常番組オンエアしなければならないんだらう。素直に臨時報道番組にでも何でもして、あにめなんかは何もない日に振替へればいいだらうに。
とは言へ、殺人鬼にとつて自分の行動の理由なんてものは解りやしない、と云ふのは眞實だ。他人がいくら詮索したところで――そもそも動機なんてもの、本當のところは何時だつて判る筈もない。
大體、人が他人を詮索するのは、自分の勝手な興味に基く。それに苛立つて、殺人鬼・村木は世間に反逆して見る。福田氏の代表作と言へる本作「解つてたまるか!」、主人公は殺人鬼だ。彼の殺人行爲は極めて觀念的である。彼は人を殺し、人質をとり、立籠つて、世間の注目を浴びる。散々世間とやりあつて、しかし、その注目の仕方が餘りにも淺薄である事に、頭の良い主人公は即座に氣附いてしまふ。辯舌なんてものは役に立たない。だから武器で脅してみた。しかし、ライフル一挺で脅してみてもしやうがなかつた。遂に村木は「原爆」を持出すのだけれども、どの道自分の反逆も、決して地に足の附いたものではない(「原爆」は贋物である)。村木は人間なるものに絶望して自殺してしまふ。世間も非道いが、人は世間から決して拔き出た存在ではあり得ない。人を殺して何うなると言ふものでもないが、それに氣附けば――と言ふより、身に沁みてわかつてしまへば、人は自分を殺してしまふだらう。
……と、さう云ふお話。落ちの呆気なさ(ひどさ)も含めて最も福田氏の御芝居らしい御芝居だ。こんな酷い話ばつかり書いてゐるのだから本當に福田さんは偉いと俺は思つてゐる。
俺は老荘思想が大嫌ひで――と云ふのは、老子だの荘子だのと言つてゐるが要は連中、孔子粘着にほかならないから。孔子を貶めて自分が如何に頭のいい事を言つてゐるかを誇示する爲に劃策したのだから、無爲自然だの何だのと言つてゐるけれども、要は自己顕示欲の塊でしかない。が、それは矛盾だ。孔子樣の方が餘つ程一貫してゐる。
匿名の問題と言へば――匿名の書き手がゐるのなら、讀み手なんか全員匿名だけれども、さう云ふ匿名の讀み手にだつて要求されるべき事は幾らでもある。
うつかり玄人志向のGW3.5AI-U2/CSを買つたが、やつぱり粗惡品だつた。粗惡品だから動かないのであり、それを「玄人なら動かせる」とか言つて騙して賣りつけるのだから惡質。本當の玄人ならこんな粗惡品には手を出さない。と言ふかサポートのあるちやんとした製品を買ふ。玄人志向なんてブランドのものを買ふのは素人。二度と玄人志向は買はない。
※サムスン製ハードディスクにつきましては、相性問題が非常に発生しやすいため、すべてにおいて動作保証の対象外とさせていただいております。
前に死んだアイ・オー・データの外附HDDをばらしたらサムスンが出て來た事がある。いろいろひどいな。
ちなみにMacのメニューがモニタの一番上にあるのは、シングルタスクだつた時代の名殘。一度さう設計したものだから何かさう言ふのがMacだみたいな固定觀念がいろいろ出來上がつてそれで弄れなくなつてゐるみたい。あと、OS 9の頃は多分ハードウェアとかと密接に絡んでゐてあゝしかしやうがなかつたんでは。
Macのメニュー、マルチタスク環境だと何のアプリが今現在動作中か、さつぱりわからないと云ふ大問題が(先方のこめんと欄で指摘濟み)。殊にOS 9では悲慘で、複數アプリを起動してゐる自覺がないまゝ作業をしてゐてメモリがをかしくなつてシステム止つて大打撃とか屡々あつた。と言ふか某さんのマシンが未だにOS 9で時々アプリ立上げ過ぎて止まる。OS Xだとめもり周りは氣にしないでよくなつた。一方で、ランチパッドで一往動いてゐるアプリを確認できるやう改善された。でも相變らず判り辛い。
と言ふか、今のMac OS Xのメニューの重大な缺點、キー一發でプルダウンしない事だらう。WindowsだとメニューバーがあるアプリならどれでもAltキー押してカーソルキーでメニューを出せる。Mac OSだと、何かへんなキーバインドでキーを押さないとメニューが下がつて來ない。何んなキーバインドかは教へて貰つたけれども忘れた。前に教へて呉れた人、ごめんね。
それあ「正しい」と言つたら「づつ」が正しいに決つてゐる。けれども、「づつ」だけが正しくても仕方がない。では全文正かなにして今の時代商賣になるかと言ふとそれは別の話。
ちなみに俺の場合、本に載る文章を書く時には今のところ「現代仮名遣」とかの決りに嚴密に從つてゐる。載らないところでは適當やつてる。
と言ふか、「現代仮名遣」なんかに從はざるを得ない状況で「づつ」の正しさに「こだはる」のは、まさに「こだはる」事でしかない。商賣なら割切つていいと思ふよ。
個人の使用ですら一日當り數GBから十數GBのデータが増えて行くのに、ストレージの方の信頼性は上がらないし、だからと言つてバックアップするには轉送速度がさつぱり上つてゐないから效率が惡過ぎる。HDD一臺をまるごと複製する暇があつたら別の作業したいとか個人レヴェルでも不滿がいろいろ。
内容については、Operaユーザとしてはいろいろ言ひたい事があつていろいろ書いてみたけれども、印象のみで書いた説得力皆無の文章にしかならないので沒。設定の弄り方次第でOperaの操作感はまるきり違ふものになるんだけどなー。
あと、いつまで「レイアウトが崩れる」とか言つてゐるんだ。そこまでデザイナ的發想に拘る必要あるのか? ウェブなんか大體見られればいいんだよ。
S・Aの録畫に失敗した。地上デジタルの映像が亂れ捲つてゐる。八木のチューナとかHDDとかWindowsの状態とかを疑つたが原因はアンテナケーブルの接觸不良。何だよそれ。うちではケーブルやアンテナ線の接觸不良が原因のトラブルが多過ぎ。世の中の人はケーブルの類については無關心だが、個々の機器よりもそれらを繋ぐ線の方がよつぽど重要だ。
ちなみにアナログでバックアップの録畫をしてあるしAT-Xでも録畫するから保存用のデータは確保できる。問題は上下にいらない黒帶が入る事。八木のDTC110だとズームできるから録畫の際に720x480の全畫面フルに使へるんでそれでいつも保存用の録畫をしてゐるんだけれどもケーブルの接栓の接觸不良なんて詰らん理由で録畫失敗だなんて下らな過ぎる。
東京堂書店。神保町の出版関係者何人かが三階には上がったことがない、なんだか上がりづらいと告白していた。エスカレータ廢止されたからなー。昔はもつと上まで賣場があつた。人がゐなくて俺にとつては實にいい暇潰しの場なんだが。先日の改裝で東京堂、背が低かつた書棚に繼足しをして背を高くして、本を澤山詰込むやうになつた。
纔か一年足らず前の記事だが現在では状況が變化。既に國産品がほぼ絶滅し、殘る誘電メディアも品質低下が著しいとかいろいろあつて全然信用できない。
めも。?:ドライヴのカレントディレクトリのファイル全部を今ゐるディレクトリにコピー。サブディレクトリの中の構造なんかもまるごと。CRCえらーを無視。
このサービスは、ログオフに長い時間がかかったり、プロファイルの整合性が取られないなどの問題を解決するためのサービスです。
うちの自作PC無名戰士一號(改)くんが朝の一番忙しい時に電源を落さうとしてもなぜか三分くらゐ考へ込む癖がついてゐたので導入したらすつきり。
基本的に宗教には理性的な側面と感情的な側面とがある。人間には理性的な側面と感情的な側面とがあるからだ。そして、或宗教とは、人間の或集團が持つ共通の價値觀の形式である。民族宗教と民族或は文明とは、密接に結合してゐて、分かつ事が出來ない。キリスト教とキリスト教文明とは一體のものだ。そのキリスト教文明においてのみ、科學が發達した、と云ふ事は強調されねばならない。中世、アラビア社會で科學その他の知識が受繼がれ生延びた事は事實だが、アラブは停滯してしまつた。キリスト教社會も、キリスト教による支配の下、停滯を生じたのだが、しかし、他の社會と違つて、自身の力で再生を實現してゐる。それも、興味深い事に、社會の停滯を生じたキリスト教自身の力によつて、である。キリスト教自身の改革と、ほぼ同時に、反キリスト教的な革新とが生じ、中世が近世に移行してゐる。宗教改革とルネサンスだ。茲で、キリスト教文明は、感情面でキリスト教と云ふ表現を持ち、理性面で科學と云ふ表現を持つた――さう言ふと、思ひ附きの域を出ない出たら目だ、と非難されるのだけれども、何うだらうか。
文明と宗教の結び附きは、トインビーが言つてゐるし、ドーソンも言つてゐる。イギリス邊の歴史學は――文明論と特に區別もしないで構はないと連中、思つてゐるだらうし、俺もそれでいいと思ふのだが――日本では何うも人氣がないらしいし、特にドイツ邊の小難しい学問をやつてゐる連中からは殆ど憎惡の對象にすらなつてゐるのでないか。
ドーソンは、西歐に於てキリスト教特にカトリックの果した役割を高く評價してゐたし、問題を抱へた現代社會の再生にもカトリックは貢献し得ると考へてゐたのだが、最近のイギリス人は何うなんだらうか。
殊に「宗教」と言ふと、最う人によつてイメジやら定義やらがてんでばらばらで、そのまゝ對話をしようとしても、異る概念についてめいめいが勝手に思ひ思ひの事を一方的に喋り散らす結果になり兼ねない。
なんかまた專門家の嚴密病が。ただ單に英語とかフランス語とかをまとめて呼ぶ時、記號的に「歐米語」と言つてゐるだけで、「歐米の全ての人間が共通して使つてゐる言語略して歐米語」とかそんな話ではないのに。「日本語と言ふな、アイヌにも言葉があるだろ」とかそんな揚げ足取りと同じだと思ふ。
今の時代、最早言語の名稱なんて土地の名前とかと必然的に結合したものではなく記號としてしかあり得ないんだから、「不正確」でも別に氣にする必要ないだろ。
石井勲『1年生でも新聞が読める 革命的漢字教育法』(講談社)を百圓でひろつた。石井先生が、一年生から更に遡つて(?)就學以前の子供に漢字を教へ始める前の本(たしか)。違つた。福田恆存さんの推薦文が載つてゐる。
日本人は、概して保守的な民族なのですが、「ことば」の問題となると、奇妙に進歩的になる。おそらく、だれもが、日本語に対して、多かれ少なかれ劣等感を抱いてゐるからでせう。そのため、「大衆のため」「子どものため」と称しては、不合理な表記法改革をする。何のことはない、「子ども」「大衆」といふかくれみのをつけた、劣等感の育成にすぎません。こんなへっぴり腰の教育観で、子どもを教育してゐるのが現状です。最近、水道方式とか、プログラム学習とか、学習の能率化が、世の母親の間に大はやりといふのも、こんなことが原因なのでせう。でも、私なら、さういふ学習方法以前の問題として、学習の基本となる国語教育に、効果が証明ずみの石井さんの漢字学習法をお勧めします。はるかによい成績がをさめられるでせう。幸ひ、本書には、個々の漢字の教へ方まで、親切に書かれてをります。母親の最もよい手引となることは疑ひありません。(歴史的かなづかひによる)
ところで、昔、「鳥のやうな抽象的な概念を表はす漢字よりも、鳩や鶏のやうな具體的な物を示す漢字の方が幼兒には理解し易い」と言つたら、變な曲解をして呉れた擧句、俺の事をきちがひ呼ばはりして呉れた人がYahoo!掲示板にゐたなーとなつかしく思ひ出した。なんか逆鱗に觸れたらしく、未だに俺に粘着して呉れてゐるらしい。
石井式の漢字教育と言つても、日常誰も絶對に使はない「かながき」の本を子供に與へるのをやめて、普通の漢字假名交じりの書き方を使はせる、と云ふだけの事に過ぎない。單に「漢字を使ふ習慣をつけさせる」と云ふだけの話で、議論をする必要もない常識的な方法なのだが、なぜか「それが正しい事を理窟で證明しろ」と人に強要して困らせる人がゐる。
例のええと何だつけ變なをぢさんの「いろはもどき歌」とか、文語の苑とかは、方法論として「考へられる」に過ぎず、效能なんて事を全然考へてゐない思ひ附きのものでしかないが、石井式の漢字教育法は人間の心理に即したものだから「あり得る」ものであるのみならず「實施する價値のある」方法だ。
と言ふか「何年生の子供にはこの範圍の漢字しか教へては行けない。よつて子供にもその範圍外の漢字は絶對に使はせない」とか、どんな官僚主義だよ。役人が役人の世界の中で使ふものを制限するのは勝手だが、役人は官廳から出て來るなよ。
いままで、むずかしい漢字というと、字画の多い、字形の複雑な漢字がそうだと考えられていました。したがって、やさしい漢字というのは、字画の少ない、かんたんな字形の漢字ということになっていました。しかし、これは、すでに申しあげましたように、だれでもそう考えやすいことではありますが、まったくちがっています。
子どもの生活に、もっとも縁の深いもの、子どものもっとも興味や関心をもつものを表わした漢字が、字画に関係なくよく覚えます。しかも、この点に同じ条件であるなら、字形の複雑なもののほうが、覚えやすいようにさえ思われます。
自分は今まで人生のどれだけを生きて來てしまつたのだらうとか、死ぬまでにどれだけ時間が殘つてゐるんだらうとか、人生が終つたら何うなるんだらうとか考へる時、人はちよつとだけ宗教的になつてゐるやうに思ふ。
雨の所爲でカウボーイビバップ録畫失敗。なんで他の局だとちやんと映つてゐるのにNHKのBS2だけブロックノイズまみれになるんだよ。
Photoshop。二枚の畫像の色味を合せようとして手作業でいろいろ頑張つたけれども巧く行かなくてぶち切れ。ふと思ひ附いて作業を最初まで戻してから自動レベル補正をかけたらぴつたり。
スパムメールよけでいろいろNGワード登録してあるんだけれども、そろそろ「SEO」がタイトルに入つたメールもはじいた方がいいのかな。
批評家の力量は、批評の対象となっている言説を述べた人と同等 (あるいは、それ以上) でなければならない。
その前提に立って、ぬきさしならぬ状態のなかで、寸鉄のように撃ち抜く アフォリズム を提示するのが第一級の批評家であって、第一級の批評家が綴った短い批評文は、思いつきの戯れ言とは雲泥の相違になる。
それを「安易に行なつてゐる」と云ふのが「輕蔑」の理由となる訣だが、一方で、一見して數撃ちや當る式のやり方を採る事もまた一つの態度であるし、それに讀み手を附合はせる事もまた一種の方法論として「あり得る」。
福田恆存が、ワイルドのアフォリズムを譯し、安吾を褒めたのには、その見識・知識よりも、生き方・行き方への同感があつた事が、理由として「ある」。「二流」である事も一種の「あり方」として福田氏は認めてゐたし、さう云ふ人を福田氏は一面で積極的に認めようとしてゐた。
日本人は眞面目過ぎる。人を襃めるにしても貶すにしても、餘りに糞眞面目で、何かを見失つてしまつてゐる人が多い。
科學は別にそれ自體として宗教でも何でもないが、キリスト教社會において神の存在證明から非存在證明へと進み唯物的な發想へと至つたものはキリスト教の敵と看做されるのであり、その時點で一種の宗教と化してゐるとは言へる。
キリスト教を淺薄皮相のレヴェルで(と言ふより世俗的な形で)受容れたに過ぎない日本人にとつて、キリスト教が自分逹のものでないのと同樣、科學を宗教と看做す發想もまた自分逹のものではあり得ない。科學それ自體を信奉する態度があつても、日本では狂信であり、信仰ではない。

 

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