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ビルドゥングスとは?/ アイフル

[ 529] 「DEATH NOTE」最終回直前と「武装錬金」最終巻にみる、少年向けビルドゥングスロマンの現在 - さて次の企画は
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20060412/p1

とにもかくにも、ぶっ通しで忙しいままにトラブルシューティングをしているので、和月伸宏論を書けないままにきてしまっている。たださすがに今週のジャンプを見ると、当初考えていた俺のDEATH NOTEの第二部最終回予想とかなり重なっていたので、ここはメモ書きでも一発、書かなきゃいけない。ちょっと覚え書きで少年向けビルドゥングスロマンの現在に関する私論をちょっと書いてみる。
父親が成し遂げられなかった偉業を達成する。父親は必ずしも実父である必要はなく、「師匠」である場合もあれば、「父の世代が倒せなかった悪」としての「魔王」である場合もある。この「父の世代が倒せなかった悪」というモチーフはわりと解釈が多様で、「倒す」場合もあれば、「小さな悪は倒さず共存する道を見出す」場合もある(ま、シルバー船長とかね)。
これは第一条件とは裏表でもある。つまり自分が父親化して、社会を構成する最小単位である家族をなすようになることを意味する。その時期をもって自身の能力のある種の限界点を作り出し、そこを上限として子供=自分を越えるであろう次世代を作ることを意味する。ある意味で第三条件とも重なる。
ファンタジー的にいうのであれば、「行きて帰りし物語」の帰って行く部分。ただこれは必須ではなくて、故郷に帰ることなく冒険それ自体が日常化して、新しい地平を開く場合もある。つまり冒険の継続という行為が、ある種のニューフロンティアを開く形で日常化するという決着もこの形式の治まりとしてはあり得るわけだ。
以前に書いたときにはそれほど意識していなかったのだけれども、何らかの形で「最終的に日常性を獲得する」ということの重要性ってのは、色々と念頭に置いて置いた方が良いような気がする。↓ってことでちょっと寄り道
教養小説の枠組みができた19世紀から20世紀初頭と現在では、ちょっと違った「冒険の枠組み」が出てきたのかなぁという気がする。
それは何かというと、僕の年代で云うと平井和正「幻魔大戦」に象徴される「ハルマゲドン」、世界を滅ぼす最後の戦争のイメージだ。あー、さすがに時間がなくてあたっていないが、そうした世紀末の時代気分というのは、簡単に世代が変われば忘れられるけど、人が活きている一生のウチに一度くらいは遭遇するものなのだろう。釈迦入滅一千年でもいいし、ミレニアムエンドでもいいや。
ただオタク第一世代から第三世代は間に20年ぐらいの幅はあるけれども、世紀末とバブル崩壊を経験しちゃったので、そこには宗教的な意味は(少なくとも俺には)薄かったけれども、戦後日本の少年向けコンテンツの変遷になんらかの影を落としているのかもしれないなと思う。
ビルドゥングスロマンというのは、教養小説・成長小説で、そこで乗り越えられる試練というのがハルマゲドンであり、そこでの究極的な善の勝利というのはは悪くないと思っていたのだけれども、どうも80年代末から90年代初頭のオカルトブームの捉え方を見ているとどうも違うんじゃないかという気がしてきた。
ビルドゥングスロマンの枠にかろうじて収まる「世界を救う」と、ハルマゲドン的な「究極の善の勝利=ハルマゲドン的決着(≒で無への回帰もはいりかもしれんが)」って、間に深く大きな溝があるのかもしれない。
コンテンツが大ヒットやインフレとかいったソコココの状況で永続的になると、ビルドゥングスロマンの形態を維持する上では、予想以上に都合が悪いのだろう。
結局、ビルドゥングスロマンって「内在的に世代交代を含む」からだろうか。俺にとっても80年代当初は「だらだら連載を続けるのって良くないよね」程度の認識だったのだけれども、時間がたって考えてみるに、小林よしのりの「脱・正義論」をビルドゥングスロマンとして読んでしまうぐらい悪いのかもしれない。
ビルドゥングスロマン=教養小説は、「極限の悪を倒す正義の味方を描く」小説じゃないんだから。延々と続いていくライトノベルや悪役インフレの漫画を念頭に置くと、そう錯覚する部分も出てきてしまうかもしれないけれど。
右肩上がり成長時代とか商業優先のための続編攻勢を目にしてしまうと、どうしても少年モノとしての軸がブレてきてしまい、綺麗な終わり方というか、第三条件的なエンディングを迎えられなくなってしまうわけだ。このあたりはヒーローの日常への回帰という形で後段でもっと精緻に書きたいのだけれども、閑なくて書けないかなぁ……。
にはちょっと震えた。うん、今の時代に伝統と継承を描くとなったら、こう書くしかないよねという枠組みが見えた感じ。
ニアとメロというのを「Lを継承する、白黒コンビのツーマンセル」と見て、「一代の神」「継承者はなくすべては手駒として扱うキラ」と対置すると、決着はこうなるよね。
前から飛び飛びにかいていたけれども、少年向けのコンテンツの変遷していくなかで、次世代の少年向けコンテンツに現れてくる主人公は次のようになるんじゃないかと俺は考えている。
●主人公は「白」と「黒」の少年が二人。主人公はそれぞれ先天的な天才で、深刻なトラウマを抱えているが、その主体を二つに分割し、ストーリーをツーマンセルで引っ張ることにより、90年代以降の「引き籠もり」傾向を回避しようとする。
●「白」は「黒」より未熟で弱いがポリティカルコレクトネス的に正しく少年モノの王道を進む。「黒」は「白」より強いが、殺人・変態・サイコ衝動を含む自身の汚れを知るがゆえに「白」にコンプレックスを抱き、「白」を助けたいと思っている。
●「白」は童貞。まだ決まったパートナーが存在しないか、あるいはストーリー初期から存在。しかし「黒」は基本的に童貞ではなく女性にモテモテでハーレム状態だが、満たされない。
●ヤリチン不良キャラが、主人公の一方「黒」として登場。白黒の弁証法的な合一を目指すのが、ストーリーの主目的の一つでもある。
●父・師匠的な存在との、伝承・技の継承は「白」に対してなされる。「黒」は、自身が継承者でないことを知っているが、伝承・継承の中に置いて果たされるべき役割を無意識に知っている。
ちょっと脇道に逸れるけれど、日本アニメ・コミックにおいて、なぜロボットを操縦するのが無垢な少年でなければならないかに関しては、内田樹が「街場のアメリカ」で述べている戦後のロボットヒーロー論が興味深い。それをまとめると以下のようになる。
大人が扱うとロボットは必ず悪を為し、純粋な子供が扱ったときにのみ、正義の味方となる。これは太平洋戦争を行ったときに大人が悪を為し、戦後世界は純粋な子供が作っていくべきだというのを反映している。
親の恩を知らない子供が、親の作ったロボットで戦うのを、すでに手が汚れた大人は銃後から見ているしかないという構図が生まれる。
少なくとも戦後直後においては、子供は純粋なものとして見られて「子供が民主的な未来を作るんだ」と本当に信じられていたのは確からしい。
そしてその主役として信じられていたのは、戦後に生まれた「団塊の世代」であったわけだ。あー、ここでも団塊の世代が出てくるんだね。
ところが、「団塊の世代」が右肩上がりの高度成長をしていき、それがいったんは石油危機で崩れたものの立ち直り、プラザ合意を経て「団塊の世代Jr」が自意識を獲得し始めたころに、バブルが崩壊する。
少年犯罪は必ずしも数が増えているわけではないのだけれども、少年犯罪をどのように捉えるかという見方が急速に変わってきたのが、90年代だと言えるだろう。新人類とか新しい世代をとらえる言い方は――ある種、「団塊の世代」こそその一つであるが――80年代〜90年代を経るうちに急速に変わってきたと思う。
という疑念だ。まぁ、後付的に考えれば当然なのだけれども、すくなくとも鉄人28号や鉄腕アトムが発表されたころは、「子供にこそ未来がある」と考えられていたのは間違いなさそうだ。
「街場のアメリカ論」において、内田樹は、鉄人28号からマジンガーZ、機動戦士ガンダム、新世紀エヴァンゲリオンとして並記して語っている。確かに大枠とベースに置いては、内田樹が語っていることは正しいし、こうしたロボット物の枠組みというのは、岡田斗司夫も語っているように非常な様式美を持っている。
ただビルドゥングスロマンとしての観点や、その時代性から考えていくと、金田正太郎、兜甲士、アムロ・レイ、碇シンジと時代を下るに従って、どんどん成長譚としての成立が難しくなっているのは自明だ。
富野由悠季による新訳・機動戦士Ζガンダムにおいて、発狂しないカミーユ・ビダンが描かれたというのはあるが、正直、キングゲイナーなどと比べるとちょっと時代解釈としては数段落ちているような気がする。富野監督を持ってしても、素直なビルドゥングスロマンとして確立させることが出来なくなっている。
その回避策というのが、週刊少年ジャンプにおいてここ数年、隆盛を誇っている白黒の少年コンビによるビルドゥングスロマンではないかというのが、俺の主張だ。
明らかにLをニア・メロが継承するというのは、形として異質ではあったものの――今まで少年マンガで考えられていたようにストレートに白い無垢な少年が継承する形ではない――痛みを伴いつつも、白が黒の犠牲の下に継承し、先代を越えるというのを、少年マンガカテゴリーの中で提示できたのは興味深い。
また一方で、「継承を考えていた」Lに対して、「一代の神としての自分」「手駒には限定情報しか渡さない」キラが、高田―魅上−キラとのコミュニケーション齟齬によって自白に追い込まれるというのは、まぁ必然なんだけど、そこに俺は時代性を感じた。

 

[ 530] 少年の成長物語(ビルドゥングスロマン)としてのネギま@114時間目|旧館:物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために
[引用サイト]  http://ameblo.jp/petronius/entry-10005849574.html

基本的に一番愛しているのは『物語』です。マンガでも小説でも何でもいいですが、好きな物語三昧で仙人のような生活できたら・・・・と日々夢見る激務のリーマンです。
という物語世界のドラマトゥルギー、言い換えると男の子にとっての「終わりなき日常(宮台真司風)」を戯れる世界観のある種の完成を見た作品だからです。
萌え的世界観の高度に洗練されプロフェッショナルの技で構築された、最終形態なのです(笑)。(←ほんとか?、と自分で突っ込みを入れたがる)
ちなみに、世の中難しいなと思うのは、スキでなんども読み返す作品ではありますが、実は、僕個人は萌えない&燃えないのです僕は。だから、このころは赤松健なんて、たいしたことない凡百の萌え層をターゲットにする職人的漫画家くらいにしか思っていませんでした。(AIとまは、実は少し期待したのだが尻つぼみだったし・・・)
を生きるほうがスキだし、実際、物語も直線的な時間概念(=成長するということね)に凄くひきよせられる。
だから、これらの永遠の時間的作品群の傑作を凄いとは思いつつ・・・・・時には、疲れを癒してほしくて読むが、、、、、熱狂的なファンにはなれないのだ。そもそもの僕のコアが、ビルドゥングスロマン的なマインドで生きているから、受けつけないといった方が正解だろう。
結論は、上記に書きましたが、ネギ・スプリングフィールドという10歳の少年は、物語の構造上学園世界といううる星やつら的永遠の時間の中を生きながらも、彼の意識を支配する
という3つの感情で縛られまくっており、その緊縛・呪縛は10歳の少年にして、命を懸けるほどの行為になんども駆り立てます。
この動機の調達により、永遠に続くナルシシズム的美少女H な燃え世界観に突如、強烈な目的意識と直線的に前へ進む時間概念が挿入されます。
100時間目で明日菜が心配しているのも、7巻で心配でたまらないと泣いたのも、ネギ君が、この3つの刷り込みによって、真っ直ぐに父親という像の焦点に突撃してしまい、燃え尽きてしまいそうなあやうさを感じているからなんですね。
前へ進む時間概念とは、ある種『終わり』へ駆り立てられる破滅的な妥協のなさを指し示すもので、全力で高みに登ってその頂上の果てに、なにがあるんだろうといういう虚無を抱える物語のドラマトゥルギーなのです。明日菜が心配でたまらなくなるのも頷けます。
これを基本に据える『友情・努力・勝利』のジャンプシステムが、いつも破滅へひた走るのがいい好例です。ちなみに、この直線の果てにあるエンドが終末論です。これを見事に妥協なく描いた最高傑作は、『デビルマン』ですね。いや、ネギまに「そこ」(笑)まで行けとはいいませんが(笑)。
先ほど出てきた、プラネテスの登場人物であるロックスミス・・・これは、現代のグスコーブドリだと、彼の部下のエンジニアであるヤマガタは話しています。
僕は、宮沢賢治の描くブドリの人物像が死ぬほど好きで、なんども読み返しますが、彼の強く科学を信仰する姿勢と、みんなを大飢饉から守るために火山をコントロールしようと、帰れないのをわかっていながら山へ赴くシーンが、大正期の科学絶対主義とファシズム的な純粋な美しさとの混交を感じて、いつも目がくらくらします。
ただね、この直線的な時間概念の中で、一直線へ終末へひた走る姿勢は、なんどもいうが、極端で危険なんです。なぜならば、これは、前へ進む思想であり、その本人や周りを幸せにするとは限らないからです。言い換えれば、周りや本人を、確実に不幸と破滅に導きやすい思想なのです。だって、デビルマンの最期を見てみなよ!(笑)。
直線的時間概念の権化であるユダヤ・キリスト教やそれに基づく進歩思想、その究極形態のひとつであるマルクス主義がどれほど人類を破滅と虐殺に導いたかの歴史を紐解けばそれはわかると思う。
まぁ、そんな政治的な話はさておき、こうした直線的時間概念を、全力疾走しているネギくんは、歯止めが利かなくなったブルトーザーとか戦闘機みたいなもので、とにかく燃え尽きるかより大きなものに衝突して壊れるまで走るのをやめません。
このラブひなで完成を見た永遠に空転する萌え的世界観を、直線的時間を挿入させて歯止めをかけ入れ子構造とするという、作者のアイディアは・・・・・・お見事!!!としかいいようがない。倫理的にも、素晴らしい結論ですし。
また興味深いのは、ただ読者やマンガ世界での性的な視点の対象でしかない少女たちにも、この「直線的時間概念の挿入」という契機を経て、個人として成長するチャンスが生まれるのです。
もっと簡単に言うと、ネギ君という成長する存在の暴走を止めるために、関わることによってただのオブジェとして存在していた記号にコミュニケーションを発生して、ちゃんとしたレベルでのドラマツゥルギーが発生するんです。
そもそもそれほど物語り空間が立ち上がっていない凡百なマンガなどでは、たとえば女の子の裸のシーンやSEXシーンがあったとすると、ただ単に「性的な欲望を喚起する存在」として存在しているだけであって、別にそのキャラクターの意志がリアルに存在しているわけではないのです。
これは、Hな写真なんかが典型的で・・・・・写真をやっている人にはわかりやすい議論だと思いますが、『見る側』と『対象物』の関係性の議論です。
つまり、見る側の『ため』に存在し、見る側の意志に支配されるだけの対象物であるということが、ここでいう記号という意味でのキャラクターです。
しかし、真の物語性やドラマツゥルギーが存在する構築世界では、たびたび創造者(=作者のこと)の医師さえ裏切ってキャラクターが発言したり動き出す瞬間があるそうです。
作者でさえそうなのですから、読者にとっては、自身のナルシシズム的コントロールを拒否されることを意味します。
そして、プラネテスのハチマキやハチマキのオヤジが、愛や妻を捨てられなかったように、相手が人間として自分の傍に存在してくると、それを切り捨てる行為は人間にはできないのです。・・・ときにはロックスミスのように本気で切り捨てるすげーやつも出ますが(苦笑)。
目的の終末だけを見るのではなく、走るときの道端の花に気づきなさい、というのはよくいわれるセリフですが、それは、ナルシシズムの世界で一人で暴走するのではなく、自分が一人ではないことに気づきなさい!、という倫理的メッセージなのです。
そして、先週号のネギ君のリラックスした表情は、刹那の指摘によって「それ」を理解した表情ですね。だから力が抜けたのです。・・・・・こういう文学的な裏読みができるのってすげーぜ、赤松さん(笑)。
クラスメイト全員が、一話にすべて登場したのも、これがほとんど初じゃないかな。つまりは、13巻分まで連載をを描いてやっとこそ、ネギという一人の成長時間軸とその他のキャラクターの関係性に、物語のドラマツゥルギーが発生するくらいの深みと厚みが出たことの証左なんです。ほんのここまでで、13巻ということは、まだまだ続くねー(笑)
でも自分を貫かなければ前へは進めない(=仲間を切り捨てて見捨てることができなれば真に偉大な目的には到達できない)
というドラマツゥルギーが生まれるのです。このダイナミズムこそが真の物語性の最高峰であって、いうなればドストエフスキーが描いた世界の究極の姿です。
本当に、刹那やエヴァは厚みのあるキャラクター(商品という意味ではなく人物として)になったな、と思います。そうでなければネギ君に変化をもたらすほどの影響力は持てないわけで、今回、刹那がその役割を果たしたのはある意味順当なのかもしれませんね。そして、これから変化していきそうな女の子たちがまだ大勢いることを思うと、ネギま! はかなり、すごく、長い物語になりそうな気がします。嬉しいような、気が遠くなりそうな…。
コメントありがとうございます。ども、はじめまして粂太郎さん、いらっしゃいです。>刹那やエヴァは厚みのあるキャラクター(商品という意味ではなく人物として)になったな、と思います。うんうん。そうですね〜。赤松先生ってのは頭のイイ人なんでしょうね。基本的に、小説(=文字による物語で世界を構築する作業)とか物語を構築できる人は、普通の科学者なんかよりIQが全然高いそうです。それほど世界の創造というのは、脳の容量を使うのでしょう。その才能がこういう形で結実して嬉しいですよ。まだまだ伏線が全然こなされていないですよね。明日菜自体の問題はまだ全然闇ですし、そもそもこのかが魔法使いとしてレベルを上げないと、ネギ君の英国の村は復活できないわけだから、時間もさらに先でしょうしね。もしかしたら、7年後とかで、彼が青年になって他のクラスメイトが大人になったヴァージョンまでできるかもですね?(笑)。
TBありがとうございました。相変わらず重厚な書評を書かれてらっしゃいますね。不勉強なものでドラマツゥルギーの意味も判らないまま圧倒されて拝読しました。^^;ビルドゥングスロマンの語は文脈から推察したのですがorz読ませて頂いて愚考していたことがあります。物語が現実の陰画であることは自明です。しかしリソースの制約上、現実のようにフラクタルなカオスとして『物語』が存在することが許されないことも自明ですよね(たぶん、いや...どうなんでしょう(ヲイ)。『小説』ならあるいは、でしょうか)。従い、止揚を持ち出すまでも無くらせん型に発展していくのが通常は精一杯かもしれません。ですが赤松先生の場合、デリダなどが郵便的と名状して忌避した(ように見える)読者の視点を存分に(時には楽しんでいるかのように)汲み取ることによって、結果的にか計算上かは不明ですが量子力学で言うところの観察者の視点(不確定性原理の箇所)のような効果を制作活動に生み出しているように感じられます。しかし、極論すれば折角の観察者の視点も、petroniusさんが指摘されている『緊縛・呪縛』によって限定的になっていたわけですよね。そのタガが今回外れたように思えました。petroniusさんが示唆されているようにネギまは既に『旋回点』を迎えていると思うのですが、これからはネギを中心としたネギま世界の中でのネットワークが、それぞれのノード(=登場人物たち)の重さ(=息づかい)をさらに増しながら発展していくのではないかと期待しています。その意味においても、ネギが114時間目で刹那に気付かされた世界は、より深い価値があると思いました。...ヘンな文で申し訳ありませんでしたm(_ _;m
おひさしぶりです。>不勉強なものでドラマツゥルギーの意味も判らないままいや・・・(汗。僕も、よくわかりません(笑)。というか、厳密な後の定義は、弊ブログではありえません。夜のつれづれなるままに、眠りのサプリメント・・・というのが、コンセプト(今作りました(笑))言葉は、フィーリングで、捉えてください。簡単に言うと、ビルドゥングスロマンは、教養小説・・・・主人公が、高みを目指し、内面を深化させて成長していく様を描く小説です。ドイツ語ですね。ドラマツゥルギーは、物語のエネルギーの構造みたいなもの。うーん、ドイツ語で言うアウヘーベンとかそんな意味と同じに捉えてもらえばいいです。イメージは、三国志のような、力のダイナミズムの動きです。>物語が現実の陰画であることは自明です。しかしリソースの制約上、現実のようにフラクタルなカオスとして『物語』が存在することが許されないことも自明ですよねリソースの制約上、現実のようなフラクタル性と言うか多重性は物語りは持ちえません。そういう意味では、物語は、現実の持つ情報量の多層性に比べ、陳腐です。が、同時に、ある種の現実の核心的な部分を、抽出し手純化させて、しかもそのダイナミズムの最もダイナミックナ部分を、シンプル・ストレートにホログラムとしてよみがえらせることも可能です。その再現性は、多層性の再現性でこそありませんが、・・・・いやマルセルプルーストみたいなそれを目指す作家もいましたが、、、それでも、ドストエフスキーのような世界の力学を再現しつくしてしかも、物語的純化を失わない世界を描ける小説かもいます。僕のいう、物語とは、そういったある主の現実の混沌性から、抽出され純化された力の構造を指しているので、それは、ある意味、むしろ現実よりも、「人間的なもの」である、と思っているのです。・・・・・って、書いてて訳がわからなくなってきた(笑)。
なんか、なつかしいです。僕もデリダやフーコーとかの哲学が好きで学生時代にはまったので、この言葉遣いには、なんとなく顔がにやけます。ミルプラトー!!。でも、赤松健さんの作品は、とてもいまの日本のクリエイターの先端の感覚を表現していて、僕はその周りの共同幻想に対して、凄く興味深いです。作品自体は、そもそも『そこまで裏読みするような作品か?』といわれれば、まぁ、そうかもしれませんが、けどたとえ一流の芸術でなくとも、そこに『世界の物語性の再現』がおこなわれていれば、作品そのものではなく、その作品を受け取る受け手がどのような心の働きでその世界を捉えるか、こそが世界の真実だと僕は考えています。だから、結局は受けて手の錬度なのだ、と僕は思っています。ネギまを、ただのHな萌えマンガととるか、少年の成長や少女の成長を見出して自分の心の成長につなげるか、、、、それは、作品ではなく受けての問題だと僕は思うのです。またさらに、わけわからなくなった(笑)
コメント、ありがとうございます。・・・が、僕は、このブログ自体を読んでいただければ分かると思いますが(笑)、「永遠の時間」は、超スキです。だって、こんなに読んでいるんですから(笑)。ただ、それ「だけ」よりは、もう一つスパイス入れたほうが、最高に面白くなると思う、と個人的な趣味趣向を主張しています。まぁ、好き嫌いなんで、そのへんは許してください。
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記事概要:ここでは初の(割とまともな)週間連載おっかけ記事ですよ。 サブタイトルは「みんながいるからボクがいる」 吉本新喜劇のベテランみたいな…。 試合開始直前、いいんちょたちも間に合いました。 アキラの「な…り、りりしい?」がなんとも。 刹那の「全力」宣言を受けて
記事概要:うーん、風邪の影響でどうもまだ本調子ではないので、簡単な記事になりますことをご了承下さい。 毎回楽しみに読んで下さっている方々には申し訳無いでス・・・。 では、文章量は少ないですがやっていきましょう。
記事概要:先週お休みだったネギま、1週空いたのは 残念でしたが3−Aの生徒が多く出演しました 今週のネギまの感想です
記事概要:学祭シーズンが始まる中、今年1月から始まった麻帆良祭はいまだ続行中w まほら武道会はそろそろ佳境のようですが、2日目がこれ程長いと3日目がサクっと終わらせられそうで、ちょっと怖いですなぁ。(;´∀`) 今回は久しぶりに3?A生徒がすべて出てきます。 なんだか.
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