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生んとは?/ アイフル

[ 399] 「真のゆとり教育」が生んだ18歳天才プログラマー トレンド-インタビュー:IT-PLUS
[引用サイト]  http://it.nikkei.co.jp/trend/special/interview.aspx?n=MMITzx000004022008

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上野 康平氏(うえの こうへい) 千葉大学理学部2年生。情報処理推進機構(IPA)の未踏ソフトウェア創造事業で三次元画像処理システムを開発し、史上最年少の18歳で「天才プログラマー/スーパークリエータ」として認定された。小・中学時代を米国で過ごし、帰国後高2で大学に飛び級。趣味は料理とピアノ。
「史上最年少天才プログラマー」はどうやって生まれたのか――。情報処理推進機構(IPA)は昨年10月、3次元画像処理システムの開発で千葉大理学部2年の上野康平さんを「天才プログラマー」に認定した。18歳とは思えないほど落ち着いた雰囲気の上野さん。彼の生い立ちをさかのぼると、日米の教育環境の違いやリアルなコミュニティーの大切さなど日本のIT人材育成のヒントが浮かび上がってくる。
小さいころ、家にあった父のコンピューターでゲームをして遊んでいました。当時ゲームソフトがパソコン通信上で交換されていましたが、設定とかが複雑で、自分でプログラムを書かないと遊べなかったのです。
小学校1年生ごろにはもうMS―DOSのコンフィグファイルをいじったりしてました。父に教えてもらったというより、パソコンやワープロの説明書を一人で読んで――文字の読み書きも説明書で覚えました。辞書の引き方すらわからなかったので、周りの人に聞きました。外で遊ぶより家の中が好きでしたね(笑)。
父の仕事の関係で、小3からの6年間を米国で過ごしました。中3のとき、(天才プログラマーに認定された)今回のプロジェクトで作ったレンダリングソフト(3次元画像を処理するソフト)の一番最初のバージョンを作り、地元のコンクールで入賞しました。
ゲームを作っているうちに、ゲームそのものよりグラフィックに興味が出てきたんです。「ファイナルファンタジー8」の冒頭にきれいな砂浜のシーンがあって、これがCGで作られていると知って驚きました。自分で作ってみたいなと思ったんです。
いまでこそ学生用のCGソフトは8万―9万円のものがありますが、当時はソフト自体が約200万円。機材も特殊なワークステーションが必要で、フルセットで300万―400万円しました。高くて手が出せなかったので作るしかなかったんです。
最初からCGの専門書にあたるのは大変なので、入門サイトを見てひたすら参考にしました。レンダリングをやっている人はネット上にたくさんいて、オンラインコミュニティーがとても助けになりました。
英語のコミュニティーは特に重要でした。最先端の分野になるほど、英語のサイトしかなかったし、論文も英語でした。
米国では科目別に飛び級制度があって、数学と科学で飛び級しました。この仕組みのよいところは、飛び級クラスは1年の3分の1の時間を使って、自分の関心のある分野の研究をしてよいことです。この時間を使ってCGの勉強ができたのです。ある意味「有効に機能したゆとり教育」だったと思います。
そうですね。誰がこのプログラムを書いたんだろう、と感心すると自分より年下だったりすることもありました。中学生や高校生で会社を立ち上げる人も普通にいました。日本にもそういう人材はいますが、米国では技術的に大企業と太刀打ちできるレベルだったりします。
米国と比べたとき、やはり日本が一番ネックになっているのは英語です。私も(天才プログラマーに選ばれたのは)ほかの人に比べて才能があったというわけではなく、ただ単に小さいころから英語が読めたというだけだったとも思います。日本では、例えば大きな書店に行っても、書棚にある一番難しい本ですらその分野の入門レベルでしかありません。
最近はインターネットなどで「知識の高速道路」が整備され、どんな分野であれ一気に高いレベルに行けるといわれていますが、この分野では英語の壁は高いんです。大人であれば英語が読めるからよいのですが、低年齢でITの分野を学ぼうと思っても、英語ができないと途中までしか行けないのです。
● 関連記事天才プログラマー発掘は一定の成果・支援体制のいっそうの強化を千葉大2年生を「天才プログラマー」に認定・IPA

 

[ 400] 数々の名曲を生んだアナログ・シンセサイザー『ムーグ』が復活 | WIRED VISION
[引用サイト]  http://wiredvision.jp/archives/200405/2004053106.html

ステージではハードロックが演奏されている。しかし、くるくる廻るスポットライトが照らし出しているのはミュージシャンたちではない。その脇に置いてある、ひどく古びた旧式の機械だ。
コードやツマミ、『スタートレック』ばりの点滅する電球が絡み合ったバスタブ大のこの機械こそ、世界で初めて市販された演奏可能なシンセサイザー『ムーグ』(Moog)[日本語版編集部注:正しい発音は「モウグ」に近いが、「ムーグ」という呼び方が一般化。「モーグ」と表記される例もある]だ。スポットライトをあてる価値は十分にある。40年前、ニューヨーク州北部に住むエンジニアで物理学者でもあるボブ・ムーグ博士は、楽器の製作を開始し、このアナログ・シンセサイザーを生み出した。ムーグは登場してから10年で、音楽のサウンドと感触を大きく変え、ロックやジャズ・フュージョンに定番の楽器となり、ここから「電子音楽」と総称される10種類以上のジャンルが生まれた。
5月18日(米国時間)、ニューヨークのタイムズスクエアで開かれた一晩限りのイベント『ムーグフェスト』には、音楽に大きな影響を与えたこの古い装置に敬意を表すため、有名なムーグ演奏者たちが集まった。
「ボブ・ムーグが登場するまで、われわれ(キーボード奏者)は裏方だった。彼が、コンクリートを切り裂いてギタリストを死ぬほど怖がらせることができる楽器を与えてくれた」と、ガッチリした体格でプラチナブロンドのリック・ウェイクマン(写真)は語る。ウェイクマンはプログレッシブ・ロックの創生期を築いたバンド、イエスのキーボード奏者として知られる。
ウェイクマンはムーグで電気ノコギリのような高音を出して有名になったが、ムーグが出せる音はこれだけではない。70年代のファンクやウエストコーストのヒップホップを支えたブンブンうなる重低音、テクノのピコピコ音やノイズ音、SFっぽいサウンド[ディック・ハイマンのアルバムなどが有名]――あれもこれもムーグで作られたサウンドだ。ビートルズの『アビイ・ロード』、フーの『フーズ・ネクスト』、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』、ローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』など、ロックの古典中の古典にもムーグが使われた。パーラメント/ファンカデリック[パーラメントとファンカデリックは別名義のバンドだが、メンバー構成は同じ。別名「Pファンク」]、ハービー・ハンコック、ピンク・フロイド、スティービー・ワンダー、クラフトワーク、ラッシュなどが出した有名なヒット曲の多くも、この楽器のサウンドを基調としている。
ムーグ博士が長い訴訟の末に、自分の名前でシンセサイザーを売る権利を取り戻したのは、つい最近のことだ。これは最高のタイミングとなった。長年にわたり、デジタル方式のキーボードとパソコンにインストールするタイプのソフトウェア・シンセサイザーの陰に隠れていたアナログ・キーボードの、太い低音とつんざくような高音が再び脚光を浴び始めていたからだ。
「今年(最近の展示会で)本物のアナログ・シンセサイザーを展示した企業は、1970年代以降、あるいはおそらくそれ以前も含めて、過去最多だった」と、『キーボード』誌は書いている。「一方で、デジタル・シンセサイザーを販売している企業はほぼ全て、自社製品がいかに『アナログ的』なサウンドを出せるかを一生懸命説明していた」
B・B・キングのナイトクラブにつめかけた、約600人の白髪まじりのロッカーたちは、ムーグの魅力を存分に味わうことができた。ショーの主役を務めたのは、エマーソン・レイク&パーマーに在籍した時代に出した『ラッキー・マン』がムーグの神髄として高い評価を得た、キース・エマーソン(写真)。エマーソンは右手で単音の旋律を奏でながら、左手で目の前に立ちはだかる大きな機械のツマミを操作して、甘い音色からトランペットに似た音色まで自由自在にフレーズを変化させた。ショーの最後には、両手を腰に当ててムーグの前に立ち、甲高い声でさえずっているムーグに対し、1メートルほど離れたところから敬う仕草をしてみせた。
エマーソンは1968年に、ウォルター(のちにウェンディ)・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』でムーグに出会った。エマーソンと同じ体験をしたミュージシャンは多い。
ムーグの構造は非常にシンプルだ。一連のオシレーター(発振器)が、それぞれ異なる波形――たとえば単純なサイン波――を生み出す。キーボードかリボン・コントローラーで音程を調節する。ツマミを調整したりケーブルをつなぎ換えたりすれば、さえずるようなゆっくりした甘い音もハチドリの羽音のような忙しい音も作れるし、波形を変化させて、サイン波の丸い音からノコギリ波の明るく鋭い音に、あるいは矩形波の安定した音に変えられる。フィルターを通せば、さまざまな音の成分を取り除いて、唸り声のような重低音や耳をつんざくような超高音だけを残すこともできる。
それでもエマーソンは、これをツアーに持っていきたいと考えた。しかしムーグ博士からは、絶対無理だという答えが返ってきた。この機械は非常に壊れやすいし、適切に操作するにはかなりの訓練が必要だった。しかしエマーソンはついにムーグ博士を説得し、ムーグのメインテナンスを担当するプログラマーをツアーに同行させた。
ムーグに惹きつけられた大物ミュージシャンは多い。ピート・タウンゼント、ジョージ・ハリスン、ドアーズのレイ・マンザレクは、そのほんの一部だ。スティービー・ワンダーは、マルコム・セシルとロバート・マーゴレフが参加したトントズ・エクスパンディング・ヘッド・バンドの可聴範囲ぎりぎりの低域でブンブンうなるシンセ・ベースを聴き、2人をプロデューサー兼ムーグ担当者としてスカウトした。そして、『インナービジョンズ』、『トーキング・ブック』、『ファースト・フィナーレ』、『心の詩』など、それまでにない、粘るような重いうねりがあるアルバムをいくつも生み出した。ムーグはファンクと同義語になった。
アルバム『ヘッドハンターズ』でジャズ・フュージョンの先駆けとなったハービー・ハンコックも、ムーグのサウンドに夢中になった。パーラメントのキーボード奏者バーニー・ウォーレル(写真)も、バンドを代表するヒット曲『フラッシュライト』で、ブッブッとスタッカートぎみに際限なく下降するベースラインにムーグを使った。
だが近年、状況は再び変わりつつある。往年のシンセサイザーの音を模倣するソフトウェア・エミュレーターの登場により、アナログ・サウンドへの興味が再燃した。テクノ・ミュージシャンは独自のノイズを手作りしたいと思い、ヒップホップのプロデューサーは、Pファンクやスティービー・ワンダーがそれぞれ生み出した絶妙な躍動感の秘密を知りたいと考えた。
斬新なスタイルのジャズ・ギタリスト、スタンリー・ジョーダンは18日のイベントで、「われわれが必要としているのは、古いサウンドを真似るだけでなく、新しいサウンドを作る電子楽器だ」と宣言した。
しかしジョーダンも、少しだけ姿を見せたウォーレルも、その気持ちを態度で示せなかったようだ。両者はリハーサルもなく舞台に立ち、だらだらとした演奏はよくわからないまま終わった。
ムーグの真の威力を示したのは、イベントに参加したミュージシャンの中で最も知名度が低かった、ジャムバンドのパーティクルでキーボードを担当するスティーブ・モリッツだった。『ツァラトゥストラはかく語りき』 (『2001年宇宙の旅』のテーマ曲として有名)のファンク・バージョンという俗っぽい曲で、セクシーなソロをノリまくって演奏したため、観客は下半身の興奮を鎮めなければならないほどだった。それからモリッツは高音域へと駆けのぼり、この世のものとは思えないサウンド――『R2D2』[映画『スター・ウォーズ』に登場するロボット]の体験しているドラッグによる幻覚としか形容できないような音――を続けざまに繰り出した。ホーンセクションが最後のファンファーレを吹き鳴らすと、モリッツのムーグが発する音は心臓発作を起こしそうなほどの絶頂に達した。観客は歓声をあげた。突如としてこのとき、古いものが新しく生まれ変わったのだった。

 

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